CRAFT COLA WAVE編集長のクラフトコーラマイスターが聴き手となり、鹿児島県・喜界島発「TOBA TOBA COLA」のお二人と直接逢って、これまでの歩みを振り返るインタビュー企画。サンゴ礁が豊かに育つ「喜界島」で、キースさん・ナオコさんご夫婦が、実際に島みかんを収穫して、きび粗糖や14種のスパイス&ハーブと調合。さらにデザインやシロップの瓶詰めまで手がける“クラフト”満載なコーラは、どのように育まれていったのか。前回の記事では、3年目を迎えた率直な心持ちを聴かせてもらいました。今回は、産声をあげた“激動の1年目”をたっぷり伺います。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━話し手:キースさん・ナオコさん(TOBA TOBA COLA)聴き手:鯉淵 正行(クラフトコーラマイスター)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━TOBA TOBA COLAのはじまりーTOBA TOBA COLAの1年目を聴かせてください。まず、どんな経緯で、クラフトコーラを作るまでに至ったんですか?ナオコさん:元々、シンガポールで二人とも同じ会社で働いていて、そこで出逢ったんです。シンガポールってスパイスを使った料理がたくさんあって、何年か過ごしている間に、自ずとスパイスが好きになっていって。「スパイスに囲まれた生活をしていた」っていうルーツが元々ありました。それで、シンガポール生活も満喫したから、「そろそろ、日本に帰るかあ!」って戻ってきて。その後は福岡に住んでいたんです。地元の喜界島が近いから、ふらっと帰れる距離で。それで、とある時に島に帰ったんですよ。そしたら、島みかんが実っているのに収穫されずに、フードロスみたいになっていて。あの時は、海にあるのを見たのかな?そんな島みかんの現状を見て「これは…」って。「もったいないよね。何かできないかな?」ってキースと話していて。「みかんとスパイスで何か作れないかな」って。たまたまクラフトコーラのことを知った時期でもあったから「コーラを作ってみたい!」と私が思い立って熱くなっちゃって(笑)。キースに伝えたんです。ちょうど車で夕日を見に行っている最中だったな..。車窓越しに眩しい夕日が見える時で。青春の一ページみたいな(笑)それでもう、「人生捧げたい」ってなったんだよね。その時のキースは、「わかった、わかった」みたいな感じだったけど(笑)キースさん:それで、福岡の自宅に帰って、ナオコがすぐにキッチンで作ってみたんですよ。それが、とても不味くて(笑)。それで、僕もなんだか火がついちゃって。ナオコさん:怒られてさ〜。「こんなのを作るの?人様にこんなものを差し出すの?」って。キースさん:元々、料理が好きなんですよ。味を作っていくっていうことが、やっぱり面白くて自分でも楽しくやれたんですよね。―キースさんは、食の仕事をしていたんですか?キースさん:大学時代はずっと、キッチンアルバイトをしていました。大学を卒業して就職したのが、某ビール会社のグループ会社で飲食店経営を事業で行っていて。食に関しては経営サイドでもある程度関わっていましたね。ナオコさん:それで、一回作ってみたコーラを喜界島の家族にも持っていってみたの。「これでわたしは生きる!これでブランドを作る!」って言ったら、もう不評の嵐でみんなに心配されて(笑)。でも、キースが美味しいコーラを作ってくれたんだよね。―TOBA TOBA COLAを育てていく上での役割分担が、早めにできていた感じがしますね。ナオコさん:確かに。私はいろんなものを衝動的に作りたいタイプだったから、とりあえず形にしたり、ビジュアルを作る人みたいな感じ。キースに見せて「あーでもない、こーでもない」っていうのを、ずっと繰り返しやっていたね。キースさん:ナオコが思いつきで何でもやっちゃうから、それを精査する担当みたいな感じで。今もあの時も変わらんね。―ナオコさんが形にして、キースさんが仕上げていって。その後は、どのように販売が始まったんですか?キースさん:最初に中瓶(310g)を100本作って、福岡の知り合いのお店でお披露目会をやったんです。その時に、ちょうどコロナ禍になって...。その状況で島に帰ることも難しくて、早くもピンチになったんです。「どうしようかな」と途方に暮れていた中で、知り合いの居酒屋さんとパン屋さんにお供させてもらう形で、移動販売を始めました。ナオコさん:そうそう。お供させてもらっているから、移動販売する時に必要になったモノのデザインとかをお手伝いして。それで、ずっとコーラを売っていたね。いろんな知り合いの伝手を辿りながら、移動販売できる場所を探してね…。キースさん:移動販売の免許の資格も取って、ドリンクを300円とかで販売していました。そしたら、ある時、福岡のテレビ番組が取り挙げてくれたんです。30分のドキュメンタリー風に(笑)。ナオコさん:私がテレビ局にメッセージして。「帰れなくなっちゃって!こんなことやってます!」って。それで、ちょっと広まって嬉しかった。けれど、どうなるか分からない不安はやっぱり大きくて。あの時は楽しさもあり、辛さもありだったなあ…。ーいきなりピンチに…!その時の移動販売での売れ行きや手応えはどうでしたか?キースさん:手応えは、とてもあったんです。シロップ瓶も買ってくれる人が多くて。色々な場所を巡って、また一週間後に同じ場所に戻るみたいな動き方をしていたんです。そしたら、「この前、美味しかったから…」って3本もシロップ瓶を買ってくれるおばあちゃんが現れたりして。―そういう状況下でのリピーターさんの存在や温かい声は、美味しいご飯食べるよりもエネルギーになりそうですね。ナオコさん:そうそう、泣いちゃうよねえ(泣)。キースさん:うん。「これで本当にやっていけるのか」みたいな不安もありつつ、飲んでもらったお客さんの声を聞いて「ああ…。これでやっていきたい」と心から思うぐらい、いい感想を頂いたりしたから。葛藤や不安もあったけど、自分たちの中では「もうこれでやっていこう」っていう気持ちは芽生えていましたね。そんなこんなで、移動販売を半年ぐらいやって、どうにか島に戻りました。ー島に戻ってからは、どのようにリスタートしたんですか?ナオコさん:その後は、クラウドファンディング準備に移りました。実は、福岡での移動販売中に在庫が完売して、やることがなくなっちゃった時期があって。キースさん:次にTOBA TOBA COLAをどう広めようかと考えている中で、コロナ禍でちょうどクラウドファンディングが盛り上がっていることもあって、選択肢として考えていたんです。ナオコさん:私は、過去にクラウドファンディングに挑戦したことがあって。支援してくれた方と熱いやり取りができるのが楽しくって(笑)。島に帰ってからも、「次、どうしよう」って崖っぷちな感覚だったから「やるしかない」って感じだったよね。それで、色々問い合わせをしている中で、二人がしっくりきたクラウドファンディングサービスの「Kibidango」で始めました。―クラウドファンディングをやってみて、どうでしたか?反響とか。キースさん:あんまり自信はなかったけれど、喜界島に縁のある方がたくさん買ってくれて。購入後のコメントでも「喜界島で働いていました」とか、多く見かけて。“島の絆の深さ”を実感しましたね。クラウドファンディングとしては「成功だったかな」と思えたけれど、その後リピーターになってくれる方が現れるのかっていうのは不安でしたね。期待と不安が入り混じった感じで。ナオコさん:うん、その後にオンラインストアの立ち上げも控えていて、ずっと緊張しっぱなしだったな(笑)。嬉しいこともあるけれど、一喜一憂していて、ずっと不安定だった(笑)―ちょうどその頃…2020年8月頃ですね。僕が主催したクラフトコーラ全国11種飲み比べイベントで「TOBA TOBA COLA」を取り扱えないか、ってお誘いしたんですよね。ナオコさん:懐かしいねえ!「なんか、稀有な人がいるなあ」って最初思ったなあ(笑)。でも熱量がとても伝わってきたし、「どういうコメントをもらえるのかな」っていうのは、とても緊張していたかも。その時に、「クラフトコーラにどう向き合うか」を、これまで以上に考えた気がする。島を離れて、こういう方たちに「もっと届けて、もっと伝えたい!」って強く思って。そのためには「私たちがしっかり表現しないといけないな」って。「作っている様子とかも、もっと見せたいな」って思った。キースさん:うん。最初にTOBA TOBA COLAを作った時は、「これが正解なのかな」って不安があったから。もちろん、自分たちとしては満足できる味わいになったから商品化したんですけど、「快く受け入れてもらえるのかな」って。ナオコさん:それこそクラウドファンディングでは、「喜界島だから」って無条件に好きになってくれる方が多くいて、それはとても嬉しかったけれど、「それだけだと、絶対ダメだなあ」っていう思いで。―喜界島から離れた土地にいた僕は、もう、しっかりと魅了されていましたよ...。無事にクラウドファンディングを終えてからは?ナオコさん:クラウドファンディングが終わると、自分たちのSNSでしか広める方法がなかったから…「育てる」期間だったよね。バーっと広まるものではないし、卸先があるわけでもない。あれ?どうやって、生きていたんだろうね(笑)キースさん:そうそう。気持ち的にはギリギリだった。でも、まだ2020年だったと思うんですけど、奄美大島の『みしょらん CAFE』さんが「仕入れたい」と連絡してくれて。喜界島が見えるロケーションで、一番近い“島の外”からお取引が始まりましたね。しかも、連絡取るまでわからなかったけど、たまたま知り合いだった。ナオコさん:とても嬉しかったけど、あの時も緊張したなあ(笑)。「掛け率」って概念も知らなかったし、取引先のような相手様にどうやって発送するかも、送料も、全く決まってなかったから。―福岡での移動販売があって、クラウドファンディングを経て、これから「自分たちの力で」という時に、勇気が湧き出るような出来事ですよね。キースさん:本当にそうですね。お店での反応や売れ行きも予想以上に好調だったので、「飲食店さんへ向けた取り組みもやっていけるのかもな」と手応えを感じましたね。―そのほか「育てる」ということで力を入れたことはありますか?ナオコさん:あとは、生産体制を整えるところですね。とても大きい業務用の冷凍庫を買うところから始まり、みかんをどのぐらい収穫してどこに保存するか、皮むきは誰が担当するのか、手伝ってくれる方を募集するのか…。あと、みかんを収穫させてもらう場所を探すのも大変だったな。島に帰ってきて、島の資源やコミュニティの中にどう入っていくかってところが…。キースさん:島の外にどう感じてもらえるかも心配だったけど、島の内でどんな存在として受け取られるかも心配だった。ナオコさん:そう…逼迫した問題だった(笑)。コロナ禍で帰ってきて、「いきなり変な人たちが現れたな」って思われたりしないかなって。キースさん:お土産品として作ったわけではないけど、島の中ではお土産のように売ってもらえることもあって。そうすると島内の方も買ってくれるんですけど、島内価格にはなってないから「高い」って思われないかなって。ナオコさん:うん。私たちとしては、TOBA TOBA COLAは島のことを知ってもらうための存在だから、そういう考え方を理解してもらえる方を島民の中に一人でも増やせるかなって。みかんの収穫を一緒に手伝ってくれていた方が同世代で、熱い気持ちを語り合って「頑張ろう」って励ましあってね(笑)キースさん:島内での評価が低いのも、それはそれで意味がないと思っていたから。島民の方に誇ってもらえる存在にしたかったんです。―みかんの収穫でいうと、元々の関係値を活かしていったのか、それともゼロから開拓していったのか…。キースさん:もちろん、全くのゼロからではないけれど、感覚的にはほとんどゼロからに近かったですね。ナオコは地元で、島内で知り合いが多いはずなのに、もう本人が細かく覚えていなくて(笑)。ナオコさん:え〜そうだったっけ〜、…ブランクあるからね(笑)。コーラを作るために島に帰ってきたから、昔住んでいた頃とは生活もガラッと変わって。最終的に、私が幼稚園生だった頃から可愛がってくれていたおじさんに、お願いしています!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━そうやって、激動の1年目を乗り越え、TOBA TOBA COLAの生産体制を整えていったお二人。2021年に入り、2年目に突入したTOBA TOBA COLAが選んだのは、「安定」ではなく「挑戦」の日々でした。TOBA TOBA COLAの2年目はいかに。vol.3の記事はこちら。“ウキウキ”を地で歩み続けた2・3年目と、これから。TOBA TOBA COLAの”ウキウキ”3年史(III)前回の記事はこちら。「やっと、自分たちの人生を歩み始めた」。TOBA TOBA COLAの“ウキウキ”3年史(I)話し手:キースさん・ナオコさん(TOBA TOBA COLA)撮影/写真:松田 大成/TOBA TOBA COLAさん公式素材聴き手:鯉淵 正行(クラフトコーラマイスター)